【インタビュー】河瀨直美監督とヴィッキー・クリープスが描く『たしかにあった幻』──失踪と心臓移植が交錯する愛と再生の物語

ロカルノ国際映画祭で河瀨直美監督の新作が話題に
7月末のロカルノ国際映画祭で、河瀨直美監督(『につつまれて』(1992年)、『殯の森』(2007年))の新作『たしかにあった幻』(2026年2月全国公開)が、ヴィッキー・クリープス(『エリザベート 1878』(2022年)、『ザ・デッド・ドント・ハート(原題)』(2024年)、『ホット・ミルク(原題)』(2025年))主演でコンペティション部門に追加発表されたことは、驚きと大きな話題を呼んだ。
作品の詳細はほとんど明らかにされていなかったが、インディペンデント映画界で高く評価される2人の名が並んだことで、業界関係者の注目を集めた。
少年の命と失踪した恋人をめぐる物語
ロカルノ国際映画祭の公式サイトによると、本作のあらすじは以下の通りである。
「小児心臓移植のフランス人コーディネーターであるコリーは、臓器提供がいまだタブー視されている日本に派遣される。コリーは少年を救うため奮闘するが、恋人で屋久島出身の写真家ジンが突然姿を消してしまう。ジンは日本で毎年約8万人にのぼるという、ある日忽然と姿を消す“蒸発者”となってしまったのだ。コリーは、愛する男を失った悲しみと少年を救う使命という二重の試練に直面する」
河瀨監督が描く「生と死」への視点
河瀨監督はコメントでこう述べている。
「異国の医療従事者の視点を通し、この物語は時間と空間を行き来しながら、人と人とのつながりにおけるパンデミック後の変化、そして日本において世代を超えて受け継がれてきた生と死への価値観を浮かび上がらせる」
“蒸発”とは、日本において経済的負債、家庭内の軋轢、社会的圧力などの困難から逃れるために、自らの意思で姿を消すことを指す言葉である。
本作では、コリーを演じるクリープスと、恋人ジン役の日本人俳優・寛一郎が共演。フランス語、日本語、英語で展開する本作は、フランス、日本、ベルギー、ルクセンブルクによる共同製作で、国際配給はシネフランス・インターナショナルが担当している。
ロカルノ国際映画祭での金曜日(現地時間)のワールドプレミアを前に、河瀨監督とクリープスは『たしかにあった幻』について、その着想、コラボレーション、そして紛争のたえない世界に「心」を届ける作品を発表する意義について、米『ハリウッド・リポーター』の取材に応じた。
河瀨監督は以下のように語っている。
「COVID-19の間、国境がすべて閉ざされていたとき、人と人がどうやってつながることができるのかを本当に考えていた。同時に、人々が引き離されてしまう状況についても考えていた。たとえば“蒸発”と呼ばれる失踪や、その後に行われる心臓移植など。心臓移植の場合、子どもが親より先に亡くなることもあり得る」
河瀨監督は続けて説明する。「蒸発と心臓移植、どちらの場合でも、日本では家族の死を決める際に、家族がある程度の決定権を持つという、非常に特殊な状況がある」
ヴィッキー・クリープスを起用した理由
クリープスを起用することは、作品に「外部の視点」を加えるための絶好の機会だったと河瀨監督は語る。
「日本特有の状況を、より客観的な視点からどう描くかをフランスのエージェントと話し合っていたとき、ヴィッキー・クリープスの名前が会話の中で挙がった」
日本文化と“幽霊”への独特な感覚に魅了されて
クリープスもその挑戦を喜んで受け入れた。
「撮影の少し前に、まるで“呼ばれた”ような感覚があった。急に日本のことが頭に浮かんだのだ。理由はわからないが、だれかに『日本に行かなければならない気がする』と言ったことを覚えている。そしておそらくその1週間後、フランスのエージェントから、直美監督が俳優を探しているという連絡が入った。私は“この人に会わなければ”と思い、オーディションを受けた。彼女の映画は観たことがあったので」
さらに日本へ行くという発想は、「まるで魔法にかけられたような感覚だった」とクリープスは振り返る。
「おそらく、日本の文化や古い伝統の持つ圧倒的な力、そして日本が“幽霊”と向き合う独特なあり方が理由なのかもしれない」
クリープスは脚本を読む直前に、「自分にとって非常に大切な存在」を失っていたため、この役を引き受けることは自然な流れだったという。
「それは普通のキャスティングではなかった。私たちは会ってすぐに、死や幽霊、そして自然と生死のつながりについて、同じような理解を持っているとおたがいにわかった」とクリープスは語る。
ドキュメンタリーとフィクションの融合
河瀨監督はドキュメンタリー的な視点とフィクションを融合させた独自のスタイルで知られており、『たしかにあった幻』でも同じアプローチを採用した。
「私の作品の多くでは、登場人物が実際に撮影地に滞在し、一定の時間を過ごすようにしている」と河瀨監督は語る。
「今回も同様で、ヴィッキーは実際に撮影を行った病院にしばらく滞在し、医師の衣装を着て自分のオフィスを持ち、そこにいる子どもたちとも実際に交流していた」
映画に出演した子役たちも同じように過ごしたという。
「彼らは点滴スタンドをつけたまま院内を動き回り、本当に患者であるかのように振る舞っていた」と河瀨監督は付け加える。「この環境では、自然なかたちで会話や交流が生まれた」当時のやり取りの一部は、そのまま映画の最終的なセリフとして取り入れられている。
「私たちは、その瞬間を1つだけの瞬間として自由に探求することができた」とクリープスは語る。
「シーンの中には即興で交わされるセリフもあった。たとえば、ジン(演:寛一郎)に実際に話しかけた内容の一部は、半分即興だった」
クリープスは、現実世界とその瞬間に没頭してしまうこともあったという。
「私は時々、木に話しかけているような感覚になることがあるし、過去も現在も深い悲しみに寄り添ってきた。言い換えれば、自分が悲しんでいることを強く自覚しながら悲しみを抱いてきたと言えると思う」とクリープスは語る。
「だから、時には時間の感覚がなくなり、ただそこに存在しているだけの状態になっている。それが、ドキュメンタリーのような雰囲気を生み出したのだと思う。さらに周囲には本物の医師もいたので、常に2つの世界が入り混じっていた」
タイトルに込められた“幻”の意味
この映画の日本語タイトルには「幻」という言葉が含まれているが、その意味は英語の意味とは異なると河瀨監督は指摘する。
「それは“かつてあった幻想”のようなもので、英語のタイトルとは少し違う。日本語のタイトルはさらにひねりがあって、“幻想はいまは存在しないが、かつては存在した”というニュアンスを含んでいる。つまり、現実と想像が入り混じり、夢のようにも感じられる。そんな感覚が行き来しているのである」
何が本物で、何が幻か
たとえば、ジンは本当に現実の世界に存在しているのか、あるいはしていたのか。
河瀨監督はこう強調する。
「この物語は、何かが起きたときに、それが本当に現実なのかそうでないのかわからない、そんな経験を扱っている。その意味で、ほとんど逆説的な世界とも言える。複数の意味や解釈があり、それらは意図的に曖昧に作られている」
クリープスもこう付け加える。
「何が本物で、何がそうでないのか、そして本当に存在していたのか、それを私たちが知ることなどできるでしょうか。一度失われれば、すべては幻になってしまう」
心や人とのつながりに焦点を当てた『たしかにあった幻』は、まさにいまの時代にふさわしい作品のように感じられる。これについて河瀨監督はこう考えている。
パンデミック後の分断とつながりへの挑戦
「COVID-19という共通の経験を経て、人々は本当にだれかとつながりたい、本当のつながりを持ちたいと強く望むようになった。しかし実際には、分断がますます広がっている。人々はより自己中心的になり、その結果“他者”を排除するようになってしまっている。だからこそ、この映画を通じて、亡くなった人と生きている人をつなぐこと。たとえば病院の中でしか生きられない子どもたちと、病院の外の世界を知る人々とをつなぐことに挑戦したい」
河瀨監督はこう締めくくる。
「主人公のコリーは、この病院という環境にやって来る“異質な存在”です。しかし、この異質な存在が新しい視点や価値観をもたらし、それらがつながることで、人々がより良い方向へ進むきっかけになるかもしれない。それが私の抱いていた希望だった」
“心”を開くことの大切さ
クリープスもこう語る。
「この映画には多くの意味があり、そのひとつは“心”を開くことについてである」
さらに主演俳優として次のように締めくくった。
「いま社会がもっとも苦しんでいるのは、人々が心のレベルでつながれず、ますます孤独になっていることだと思う。テクノロジー面での進歩はものすごい速さで進んでいるのに、心の面での成長はむしろ遅くなっていて、そのギャップが大きな溝を生んでいる」
※本記事は英語の記事から抄訳・要約しました。
【関連記事】
- 夏はジブリ!Amazonで開催中のスタジオジブリ作品特集と限定保冷バッグ付きDVDセット
- 【2025年8月最新】Amazonプライムビデオ新作おすすめ映画5選|アカデミー受賞作から感動の話題作まで
- 冤罪の衝撃実話をドラマ化!『アマンダ ねじれた真実』8月20日よりDisney+独占配信、予告編&ビジュアル解禁!
- 8/13はセバスチャン・スタンの誕生日!──『サンダーボルツ*』ブルーレイ発売記念で未公開映像公開
- 河瀨直美監督の新作『たしかにあった幻』、屋久島を舞台にロカルノ映画祭で世界初上映へ