『キャプテン・アメリカ:ブレイブ・ニュー・ワールド』に対する不満が浮き彫りにした白人リベラル層の「高望み」
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※注意:この記事には『キャプテン・アメリカ:ブレイブ・ニュー・ワールド』のネタバレが含まれます。
『キャプテン・アメリカ:ブレイブ・ニュー・ワールド』(以下『BNW』と略記)に対する観客や評論家の賛否が真っ二つに割れている。こうした現象は分断が進む昨今のアメリカ社会という世相を反映したものだと考えれば無理もないのかもしれないが、同時にもどかしいものでもある。確かに『BNW』にはストーリーの構造や技術的な面において見過ごせない欠陥があるとはいえようが、この作品の評価を二分する点はそれに寄せられていた「期待」に由来するものである。スティーブ・ロジャース(演:クリス・エヴァンス)からサム・ウィルソンへキャプテン・アメリカのバトンが渡された本作も、原作コミックがかつて直面したのと同様なファンからの反応に直面しているといえるのだ。
かつてないレベルの政治的腐敗や政治的無関心が蔓延り、あらゆる市民の権利が危機に瀕する現在においては、誰一人としてアメリカを救う答えを持っていない。政治家も、大富豪も、そしてアメリカの有権者において大多数を占める白人も国を救えなかったのだ。そんなことを思うと、大多数の人々が現実逃避の手段として見てきたような映画の一つである『BNW』のような作品に対し、アメリカ人を救う、しかも黒人ヒーローの登場が本気で期待されていたという事態はなんとも皮肉なものだ。
私が『BNW』を巡る議論を概観した際オンライン・オフラインを問わず必ずと言っていいほど出てきたのが「サム・ウィルソンのリベラル度が十分でない」だの「政治的なメッセージが足りなかった」という趣旨のものだ。彼ら(彼女ら)がいう通り、キャプテン・アメリカは本当に政治的に「去勢」されてしまったのだろうか?筆者はそうは思わない。先述した通り、この映画には様々な問題点があるとはいえようが、キャプテン・アメリカの描かれ方はそれらには当てはまらないだろう。むしろ筆者は、リベラルな白人の妄想がサム・ウィルソンに多くを期待しすぎたというところに問題の本質があるのではないかと考える。
確かに私自身にも、スーパーヒーロー・カルチャーが時代を動かす力を持っていると信じていた頃があったし、コミックや映画が描くラディカルなまでの共感性や、多様性、正義のメッセージが実際に社会を動かしつつあると考えたことだってあった。だが、そのようなものは所詮、まやかしなのだ。企業や人々はそのような仮面をかぶって正義を真剣に考えているフリをしながら、時の政権次第でそれを平然とかなぐり捨てるのである。そう考えると『BNW』の配給会社でもあるディズニーは罪深いことをしてきたものだ。とはいえ、私は『BNW』がきっと黒人コミュニティにさほど関心など持たないであろう企業の自己弁護のための映画だなどと思っているわけではない。むしろ私の主な関心はジュリアス・オナー監督を始めとする製作陣、そして俳優たちがこの映画にどんな想いを込めたのか、この映画によって何を実現したいと思ったのかというところにある。
本作に向けた舞台は既にディズニー・プラス上で公開されたドラマ『ファルコン&ウィンター・ソルジャー』(2021)において準備されていた。そこではアンソニー・マッキー演じるウィルソンが黒人のキャプテン・アメリカとして直面する世間の反応や戦いが描かれ、長い期間を通して物語を展開することができるというドラマの利点もあってか『BNW』よりも好評を博していた。そのシリーズの最終回でサムは次のように述べる。-俺たちがもっと良くなれるという信念が俺にとっての唯一の力だ-。こうしたサムの信条はニック・スペンサーとダニエル・アクーニャのコミック『サム・ウィルソン:キャプテン・アメリカ第2巻』(2015)においても見られたものである。そこでも彼は「スティーブ・ロジャースはアメリカという国がいざというときには必ず正しいことをしてくれると信じていた。俺か?俺にできるせめてものことは、アメリカがそうであって欲しいと思うことくらいだな」と語るのだ。こうした信念と希望はサムの人となりといわば不可分のものではあるのだが、一部の評論家はこうしたサムの発言を楽観的だとか、ナイーブだとまで評したのである。さらには『BNW』に登場するイザイア・ブラッドリー(演:カール・ランブリー)が黒人のキャプテン・アメリカが誕生したことや、彼の朝鮮戦争中における活躍を記念した展示がスミソニアン博物館に設置されたとことに感銘を受けるという描写が非現実的だとケチをつける者までいるのだ。
こうした批判に対し、筆者は以前も「『ファルコン&ウィンター・ソルジャー』は現実の社会問題に対して正当なコメントを与えるために、それを反映したものにならざるを得なかった。キャプテン・アメリカとしてのサムの旅がどんなものになっていくにせよ、次作は現実を超え、あえて変化が実際に実現できるより良い未来を描かなくてはならない。サムのキャプテン・アメリカとしての成功は過去と現在を認めたことによるものだ。しかし彼はいつまでもそこに立ち止まってはならない。それによってリアルさを演出するために、彼が黒人のヒーローとして直面する苦難のエピソードから離れることにつながってもだ。確かにリアリズムは必要だが、初めてのアフリカ系アメリカ人のスーパーヒーローによる物語という機会に、現実の厳しさを超えた理想を描いても良いのではないだろうか」と書いたものだ。
その意味で『BNW』はまさにこうした意識を反映し、子供達に夢を与えるというスーパーヒーローの原点に回帰するものとなったといえよう。こうしたキャラクターはもはや何も子供達だけに向けたものではないが、「より良い未来を描く」という本来のスーパーヒーローが持つ前提に立ち戻ったのだ。
いわば『BNW』は、従来からあった議論を再燃させたのである。例えば、サムとイザイアがサディアス・ロス大統領(演:ハリソン・フォード)の招待に応じてホワイトハウスを表敬訪問するというシーンにも一部からは批判が寄せられた。だが、考えて見てほしい。明らかに、彼らはロスを信用するほどに愚かだったから招待に応じたわけではない。サムがイザイアを連れて行ったのはイザイアによる国家に対する貢献が国民へ明らかにされるべきだと考えたからだし、イザイアがサムの誘いに応じたのも、国家による理不尽な仕打ちを受けたとはいえ、彼は依然としてアメリカを愛する愛国者だったからだ。このような感情は理解し難いものかもしれないが、軍隊に勤務した、あるいは家族が勤務していた多くのアフリカ系アメリカ人にとってそうであるように、母国を誇りに思う気持ちと、そこで自分たちの価値が正当に認められていないことに対する苛立ちは両立しうるものなのである。筆者の祖父も第二次世界大戦に従軍したにも関わらず、命懸けで守った母国に帰った瞬間、白人専用のスペースからは閉め出され、挙げ句の果てには投票権もないという経験をした一人だ。ホワイトハウスの外と内部での感情、そしてその複雑さが示唆するものは身に染みて筆者にもわかる。
決してサムはかつて自身を(『キャプテン・アメリカ:シビル・ウォー(2016)』にて)投獄したロスに媚びているわけではない。彼は劇中を通して「アベンジャーズを復活させたい」と語るロスの真意を疑っていたし、断固として自身のために働いて欲しいというロスのオファーを拒否していた。それにマッキー演じる主人公は、ロスが自身を見せ物であるかのような態度でキャプテン・アメリカと一緒に写真を撮りたいかと日本の首相へ尋ねたとき、露骨に不機嫌になったではないか。更には、ロスがサムを「坊や」と侮辱的に呼んだ時のサムの怒りは誰の目にも明らかだった。サムはその場でロスを殴ることもできただろうがあえてそうしなかったのである。怒りがどのように現れ、我々がどのようにしてそれをコントロールするか(あるいはできないか)という点はこの作品の中心的なテーマだったといえよう。
また、洗脳されていたという明らかな証拠があるにもかかわらず、ロスを暗殺しようとした容疑でブラッドリーが投獄された際、サムはなぜブラッドリーを脱獄させなかったのかという意見も見られた。だが、サムがあえてそうせずに、相棒のホアキン・トーレス(演:ダニー・ラミレス)と共に黒幕の陰謀を暴くことを選んだという点に、筆者は重要さを感じた。というのも、それはスティーブ・ロジャースを脱走させた際、結果的にアベンジャーズがバラバラになったということから得た教訓をサムがよく覚えていたことを示すものだからである。本作の主眼はより良い未来を描くというところにあると同時に、すでに確立された物語の筋とキャラクターの特徴によって本作の見どころは演出されるのだ。
そうした、既に確立されている要素こそ、『BNW』に対する不満の原因となったのだろう。 公開前の見出しや予想に煽られ、サム・ウィルソンVS.ロス大統領/レッド・ハルクが、トランプ大統領に対するリベラルなアメリカによる闘いの直接的な例えとして実現することを望む声は圧倒的に多かった。しかし、『BNW』に登場するキャラクターも、彼らが存在する架空の世界も、そうした図式には収まらないものだ。 ロスと彼の相棒であるレッド・ハルクは、トランプの台頭を誰もがジョークとさえ考えなかった頃から存在していた。更にいうと、この映画の脚本と撮影は、トランプが下馬評を覆して47代大統領に選ばれるずっと前から行われていたものだ。ロスは確かに腐敗しているし、この映画もそのことから目を背けてはいないが、彼はトランプではない。 だからサムは彼をトランプの代わりのようには扱わないのである。
また、観客の中にはサムがレッド・ハルクに変身したロスを戦いの末に説得することによって元の姿に戻すという描写が、現代の世相からすると月並みだという者もいた。さらには、ロスが自らの行動に責任を感じて大統領職を退き、実刑判決を受けるという決断を下したシーンにも批判が集中した。ロスが自分の行動の結果と向き合い、サムが彼を訪ねる決断をしたこと、そして人は変われる、最終的には協力し合えるという彼の信念は、本作がトランプ支持者を容認するというメッセージだと解釈されたのだ。だが、そのように本作のキャラクターを特定の集団を代表する一枚岩な代替物だと解釈するのは問題がある。そもそも根本的な事実として、この映画は「リベラルなアメリカ」対「保守のアメリカ」という対立構図を描いたものではない。これはスーパーヒーローになったカウンセラーが、世界で最も権力を持つ男性を対話によって説得し、責任を取らせたという物語だ。それこそ私たちが目指すべき理想のあり方ではないだろうか?マイノリティがこれまで培ってきたスキルを発揮し、その声を届けられるようになった世界に不満があるというのだろうか? 変革を起こし、戦争を防ぎ、不当に投獄された人々を解放し、指導者たちに自らの行動を反省させ、よりよい行動を取らせられる世の中のどこが不満なのだろうか?
このように考えた時、更に興味深いのが、スティーブ・ロジャースの主演した過去の『キャプテン・アメリカ』作品がトランプ政権という悪と戦うことを全く期待されていなかったという事実であろう。例えば『キャプテン・アメリカ:シビル・ウォー』は第一次トランプ政権が成立した直後に公開されたにも関わらず、悪役のジモ(演:ダニエル・ブリュール)に「トランプ的」なキャラクターであることを期待する声は皆無だった。同作は当時の政治情勢について何もコメントしなかったし、原作コミックにおけるナチスの残党というジモのキャラクター設定も改められた。
実に、スティーブが主人公だった過去作においてナチスはほとんど姿を表さなかった。ヒドラ(HYDRA)は原作コミックにおいて元はナチスの組織だったというバックグラウンドを持つネオ・ファシスト組織だが、映画においてはナチスとほとんど分離され、ただの「悪の組織」ということになっている。『キャプテン・アメリカ:ウィンター・ソルジャー』(2014)において政府組織が構造的にヒドラに乗っ取られているということが明らかになった際も、構造的な圧政の問題は扱われなかったし、『キャプテン・アメリカ:ザ・ファースト・アベンジャー』(2011)に登場したレッド・スカル(演:ヒューゴ・ウィーヴィング)とヒトラーの関係性も、遠いものとして描かれていた。当時だってネオナチや政治権力の不平等の問題は存在していたはずなのに、スティーブは革命家でなく、ただのスーパーヒーローであることを許されたのだ。彼は舞台上でヒトラーに扮した俳優を除いて、ナチスを一人も殴っていないが、それはこの手の映画が提供するあの非常に享楽的であると同時に受動的な、「パフォーマンスとしての政治」の完璧な例である。スティーブ・ロジャースの映画はスーパーヒーロー物語であることを許されたのに、なぜサム・ウィルソンの映画は政治的なメタファーでなくてはいけないのだろうか?
その理由はアメリカに存在する、「黒人が変化の先頭に立って欲しい」という願望ではなかろうか。実際に歴史上、私たちはしばしばそうしてきたし、そのために投獄され、忘れ去られ、暗殺されてきたのだ。だからこそ今、サム・ウィルソンには架空の公民権運動の指導者となって、私たちの行動を鼓舞することが期待されているのである。私たちの社会は、黒人がもう一度アメリカを救うことを待ち望んでいるのだ。 だが、私たちには実際にそれを成し遂げたのである。 しかもフィクションの中ではなく現実の世界で、だ。そして黒人の人々、特に黒人女性は、何が社会において問題なのかを明らかにしてきた。 しかし、私たちは白人リベラルの妄想が的外れだったためにそれを台無しにし、おかげで現実を突きつけられた私たちは架空のキャラクターがなんとか私たちの実現できなかったことを達成してくれないか期待するしかない状況なのである。
というわけで、率直に言って筆者は白人のスーパーヒーローと比べて黒人のスーパーヒーローにばかり、既存のキャラクター設定を犠牲にしてまで政治的な将来を見通すような存在であることを求める風潮には関心しない。私たちを救うのはスーパーヒーローではない。現に存在する抑圧的な社会や政治と戦いたいというのならそれは大いに結構だが、現実社会とフィクション上の黒人たちに対して自身の期待に沿うことや、ましてや自分たちの代わりに戦うことを望むのはお門違いである。私たち黒人はより良い未来を夢みて、それを信じることに時間を使いたいのだ。
(筆:リチャード・ニュービー)
※本記事は要約・抄訳です。オリジナルはこちら
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