【訃報】ミュージカル『アニー』の作曲家、96歳で逝去
ブロードウェイ・ミュージカルの作曲家で、『バイ・バイ・バーディ』『アプローズ』『アニー』の楽曲でトニー賞を受賞したチャールズ・ストラウス氏が、5月16日、ニューヨーク市の自宅で亡くなったと遺族が発表した。96歳であった。
ソングライター殿堂入りおよび劇場殿堂入りを果たしたストラウス氏は、12作品以上のブロードウェイ・ショーのための音楽を作曲した。
不朽の名曲を生み出した天才作曲家
ストラウス氏と作詞家マーティン・チャーニンは、日本でも愛されるミュージカル『アニー』では「トゥモロー」と「イッツ・ザ・ハード・ノック・ライフ」という不朽の名曲を世に送り出した。
また、作詞家リー・アダムスとのコンビとして、ミュージカル『バイ・バイ・バーディ』へ「プット・オン・ア・ハッピー・フェイス」、『イッツ・ア・バード…イッツ・ア・プレーン…イッツ・スーパーマン』では「ユーヴ・ゴット・ポッシビリティーズ」、『ゴールデン・ボーイ』では「ディス・イズ・ザ・ライフ」といった名曲を世に送りだした。
舞台を超えて広がる音楽的才能
ストラウス氏の才能は舞台を超えて広がり、映画『俺たちに明日はない』(1967年)、『The Night They Raided Minsky’s』(1968年)、アニメーション映画『天国から来たわんちゃん』(1989年)の音楽も手掛けた。
音楽への道のり
チャールズ・ルイス・ストラウスは1928年6月7日、マンハッタンのアッパー・ウェスト・サイドで生まれた。母親のエセルはピアニストであり、「母はとても悲しい女性だった。彼女を楽しませ、幸せにするためにピアノをいじり始めた。母は喜んで、レッスンをしてくれた」とストラウスは語っていた。
15歳のとき、ストラウス氏はニューヨーク州ロチェスターのイーストマン音楽学校で古典作曲を学び始めた。当初は「真面目な音楽」に興味を持ち、イーストマン後、マサチューセッツ州のタングルウッド音楽センターで奨学金を得て、レナード・バーンスタインに出会い、アーロン・コープランドに師事した。
ブロードウェイでの成功
ストラウス氏は1940年代後半のクリスマスパーティで作詞家リー・アダムスと出会い、2人はアディロンダック山脈のグリーン・マンションズキャンプでレビュー用の音楽を書いたという。
ステージマネージャーが、当初「レッツ・ゴー・ステディ」と呼ばれていた10代の若者を題材にしたショーのアイデアを提案し、それが1960年に上映されたストラウス氏初のブロードウェイ作品『バイ・バイ・バーディ』となった。
「私たちの世代の多くの人々、シェルドン・ハーニックやキャロル・バーネットなどがグリーン・マンションズキャンプで仕事をしていた」と語っていた。
大ヒットとなったミュージカル『バーディ』はチタ・リベラとディック・バン・ダイク主演で、「プット・オン・ア・ハッピー・フェイス」や「ア・ロット・オブ・リビン・トゥ・ドゥ」など、ストラウス氏の代表曲が多く生まれた。
ストラウス氏の90歳の誕生日に際し、リベラは「『バーディ』は楽しく、初めて「スパニッシュ・ローズ」を聴いたときはワクワクした。チャールズとチームのおかげで、私たちは自分の仕事を愛することができた。私の人生を音楽で満たし、私の一部になってくれてありがとう」と語っていた。
数々の名作と協力関係
ストラウス氏とアダムスはその後、1962年の『オール・アメリカン』、1964年のサミー・デイヴィス・Jr.主演『ゴールデン・ボーイ』、1966年のリンダ・ラヴィン出演『イッツ・ア・バード…イッツ・ア・プレーン…イッツ・スーパーマン』、1970年のローレン・バコール主演で映画『イヴの総て』をもとにしたミュージカル『アプローズ』などの楽曲を共同で書いた。
ストラウス氏はアダムスとの関係を結婚のようなものだと表現した。
2008年のインタビューで、「私は、誰とでも協力するタイプだが、リーとは結婚しているような感じだ。お互いに与え合い、夫婦のように議論もした。今でも彼との親密さは続いている。今あまり一緒に仕事をしない理由の1つは、彼が私よりも健康的な生活を送っているということだ。彼は田舎で読書をしながら過ごすのが好きで、私はそうではない。作曲をしていないと自分を見失うんだ」と語った。
ストラウス氏によれば、彼らのプロセスはテープに曲を入れることから始まり、アダムスが音楽に対する具体的なフィードバックを提供するというものだったそう。「それがリーと私が、いわば”結婚”のように共同作業をしてきた秘訣だ。彼は私に対してとても率直に好き嫌いを言ったり、細かいコメントをしてきた」とストラウス氏は語った。
ミュージカル『アニー』の誕生と成功
そんな2人だが、ミュージカル『アニー』では協働しなかった。ストラウス氏の古い友人であるチャーニンは、新聞連載漫画『小さな孤児アニー』に基づくミュージカルのアイデアを持ってきたが、当初ストラウス氏は懐疑的だったという。
しかし結果的に、ミュージカル『アニー』はブロードウェイで2,377回公演された。
世界中でも上演され、世界中の少女たちが「トゥモロー」を歌うようになった。このショーはベスト・ミュージカルのトニー賞を受賞し、ブロードウェイでは2度リバイバル上演された。
オリジナル版でモリー役を演じたダニエル・ブリスボワは次のように語っている。「6歳だった私は、チャールズ・ストラウスに初めて会ったとき、彼に100パーセント魅了された。彼の温かい笑顔と魂のこもった目…彼はいつも励ましてくれて、親切だった。私は伝説の存在と一緒にいることに気づいていなかった!」
ストラウス氏はまた、『アニー』と『バイ・バイ・バーディ』のテレビ向け作品でエミー賞を、『アニー』楽曲で2つのグラミー賞を受賞している。
挫折と回復
しかし、すべてがヒットしたわけではない。『バイ・バイ・バーディ』の次作で、アダムスとメル・ブルックスと書いた『オール・アメリカン』は1962年に3ヶ月で閉幕した。アラン・ジェイ・ラーナーの作詞による『ダンス・ア・リトル・クローザー』は1983年に1回の公演で幕を閉じ、『ニック&ノーラ』は93年に9回の公演で終了した。
ストラウス氏は、「誰にでも失敗はある。教鞭に立っていると学生は『どうやって3年か4年もかけた作品が失敗するのに耐えられるのですか?どう回復するのですか?』と尋ねるんだ。ベストを尽くし、それがうまくいかなかったなら、次にどうするか、ということだけだ」と語っていた。
遺族と功績
遺族には、子供たちのニコラス、ベンジャミン(作家)、ビクトリア(映画『ファインディング・ドリー』の脚本家)、ウィリアム(同じく脚本家)と8人の孫がいる。監督兼振付師で1964年に結婚した妻のバーバラ・サイマンは2023年2月に他界している。
チャールズ・ストラウス氏の音楽は、ブロードウェイの黄金時代を彩り、世代を超えて愛され続ける作品として音楽史に永遠に刻まれることだろう。
※本記事は英語の記事から抄訳・要約しました。
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