【訃報】伝説的ロックバンド「ニューヨーク・ドールズ」のデヴィッド・ヨハンセンが75歳で死去
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ニューヨーク・ドールズのヴォーカルとしてパンク・ロックの誕生に貢献したデヴィッド・ヨハンセンが死去。75歳だった。
家族によると、ヨハンセンは金曜日、自宅で陽光に包まれ、音楽と花に囲まれながら息を引き取ったという。
義理の娘であるリア・ヘネシーは2月10日に、ヨハンセンが10年間にわたりステージ4の癌と闘い、脳腫瘍を患い、さらに感謝祭の直後に転倒して背骨を骨折していたことを明かしていた。家族は、医療費の支援を求める寄付を呼びかけていた。
「彼と家族は、公に病状を明かしたことで多くの人々から寄せられた愛と支援に深く感動していました」と家族は語る。「彼は亡くなる前に多くの友人や家族と連絡を取る機会を得られたことに感謝していました。そして、彼がどれほど愛されていたかを理解していました」
派手な衣装と過激なパフォーマンスで知られるニューヨーク・ドールズは、ヨハンセン(Vo)、シルヴェイン・シルヴェイン(Gt)、ジョニー・サンダース(Gt)、アーサー・ケイン(Ba)、ジェリー・ノーラン(Dr)を中心に結成され、1973年、トッド・ラングレンのプロデュースによりわずか8日間でセルフタイトルのデビューアルバムを完成させた。
「僕らはスタジオに入って、ただ録音しただけさ」とヨハンセンは2013年の『エスクァイア』誌のインタビューで語っている。「コンセプトを練るような連中とは違った。ただ、当時の空気をそのまま記録しただけなんだ」
このアルバムには、ヨハンセンとサンダースが共作した『Personality Crisis』を筆頭に、『Looking for a Kiss』、『Vietnamese Baby』、『Frankenstein』などが収録されている。
彼らの荒削りなデビュー作は、プログレッシブ・ロックへのアンチテーゼとして評価される一方で商業的には成功せず、その後の『Too Much Too Soon』(1974年)も売り上げ不振に終わった。カオスな全米ツアーの末、マーキュリー・レコードから契約を打ち切られ、バンドは1976年12月、マックス・カンザス・シティでの公演を最後に解散した。
「もうお互いの顔を見るのも嫌になったんだ。あちこち引きずり回されてさ」と、ヨハンセンは2022年のインタビューで振り返っている。
ヨハンセンはソロアーティストとして1984年までに6枚のアルバムを発表した後、バスター・ポインデクスターという新たなキャラクターを生み出した。1987年のアルバム『Buster Poindexter』でポンパドール姿のジャズシンガーに転身。『Hot Hot Hot』がビルボード・ホット100で最高42位を記録し、MTVで頻繁にオンエアされたが、彼自身は「人生で最も厄介なヒット曲」と語っていた。
この成功をきっかけに、ヨハンセンは俳優としてのキャリアをスタート。ビル・マーレイ主演の映画『3人のゴースト』(1988年)ではクリスマス・パストの幽霊(タクシードライバー)を演じ、翌年には『のるかそるか』(1989年)でリチャード・ドレイファス演じるギャンブラーの親友を好演した。
さらに、『脱線パトカー54』(1994年)のリメイクでは主役の刑事を演じ、2000年にはHBOドラマ『OZ/オズ』で狂気の囚人役を演じた。
「優れたシンガーはみんな役者なんだ」と彼は語っている。「曲ごとに異なるキャラクターを演じる。ロマンティックな主人公になったり、パーティー好きの野蛮人になったりね。音楽の中でさまざまな感情を演じているんだ」
1950年1月9日、デヴィッド・ロジャー・ヨハンセンはスタテンアイランドに生まれた。母親のヘレンは司書、父親のジョンは保険業を営み、家ではオペラを歌うのが好きだった。
地元のバンドで活動するかたわら、前衛劇団「リディキュラス・シアター」で演劇にも携わっていたヨハンセンのもとに、ある日、アーサー・ケインとドラマーのビリー・マーシアが訪ねてきて、「バンドのシンガーにならないか?」と声をかけた。それが、ニューヨーク・ドールズ誕生の瞬間だった。
ニューヨーク・ドールズはマンハッタンのダウンタウンでカルト的人気を獲得し、R&Bを破天荒なスタイルで演奏。メイク、高いヒール、サテンの衣装を身にまとい、その派手な姿から一部の人々は彼らをゲイだと思ったという。そんな彼らはロッド・スチュワートのロンドン公演でオープニングアクトを務めることになった。しかし、そのイギリスツアー中にドラマーのビリー・マーシアが薬物の過剰摂取で事故死するという悲劇が起こった。
ニューヨーク・ドールズは1973年3月にマーキュリー・レコードと契約し、ツアーへと繰り出した。2004年のNPRのインタビューでヨハンセンは、公演中に暴動を扇動したとしてステージ上で逮捕され、一晩拘留されたことを語っている。「そのとき僕はライザ・ミネリみたいな格好をしていたから、決してリラックスできる夜じゃなかったね」とジョークを飛ばしていた。
バスター・ポインデクスターとしての活動では、1986~87年の『サタデー・ナイト・ライブ』シーズン12に6回出演。RCAと契約し、10年にわたって4枚のアルバムをリリースした。
また、2000年と2002年には、1952年の『Anthology of American Folk Music』を編纂したハリー・スミスにちなんで名付けられたプロジェクト「David Johansen & the Harry Smiths」としてカントリーブルースのアルバムを制作。その後、2004年にモリッシーの働きかけでニューヨーク・ドールズの再結成が実現し、高く評価された2006年のアルバム『One Day It Will Please Us to Remember Even This』を発表。この再結成バンドは約8年間活動を続けた。
ヨハンセンは『特捜刑事マイアミ・バイス』(1985年)、『キャンディ・マウンテン』(1987年/トム・ウェイツ、リオン・レッドボーン、ドクター・ジョン、ジョー・ストラマー、アルト・リンゼイらも共演)、『愛されちゃって、マフィア』(1988年)、『フリージャック』(1992年)、『The Tic Code』(1998年)、『200本のたばこ』(1999年)などに出演した。
ヨハンセンの遺族には、2013年11月に結婚した3人目の妻マラ・ヘネシー、義理の娘リア・ヘネシー、そして兄弟のマイケル、クリストファー、エリザベス、メアリー・エレン、カレンがいる。彼はかつて、女優のシリンダ・フォックス(スティーヴン・タイラーの元恋人)や写真家のケイト・サイモンと結婚していたこともあった。
健康状態の悪化により、この5年間ほどはステージに立てなかったが、家族は彼の人生と芸術を祝うイベントを複数開催する予定だと発表している。
晩年の活動としては、SiriusXMの番組『MANSION OF FUN』をホストし、2023年にはマーティン・スコセッシとデイビット・テデスキが共同監督を務めたドキュメンタリー『Personality Crisis: One Night Only』の主役を務めた。この作品は、カフェ・カーライルでのライブを中心に構成されており、彼はスコセッシ監督のHBOシリーズ『ボードウォーク・エンパイア 欲望の街』や『VINYL-ヴァイナル-』のために楽曲を提供したこともあった。
ヨハンセンは最近のインタビューで、このドキュメンタリーについて「とても肯定的なレビューが多いね。読み始めるんだけど、数本目を読んだ時点で「もういいか」ってなるんだ。むしろ僕に文句をつけてくるやつを探して、そいつと泥試合するほうが楽しいんだけどね」と語っていた。
※本記事は抄訳・要約です。オリジナル記事はこちら。
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