『ジョーカー2』ラストをネタバレ考察:原作ファンへの“裏切り”なのか?

Joker Folie A Deux, Joaquin Phoenix as Arthur Fleck, 2024.
ホアキン・フェニックス、『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』より 写真: Warner Bros./Courtesy Everett Collection
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[本記事には、映画『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』のネタバレが含まれています。]

メガヒット作『ジョーカー』(2019)の続編となるトッド・フィリップス監督の『ジョーカー: フォリ・ア・ドゥ』。前作でアカデミー賞主演男優賞を獲得したホアキン・フェニックスがジョーカー/アーサー・フレック役を再演し、レディー・ガガがリー/ハーレイ・クインに扮する本作に対し、一部のファンの間では「裏切られた」という感覚が生まれている。

その裏切りと怒りの感覚の多くは、映画のラストから来ているようだ。

『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』のラスト

終盤、アーサーは法廷でジョーカーの人格を否定し、注目や愛を渇望した1人の男に過ぎないと認める。この発言によって、信奉者たちは騒動を引き起こし、リーからも関係を解消されてしまう。彼女が望んでいたのはジョーカーであり、アーサーではなかった。

アーカム精神病院に戻ったアーサーは、もはや冗談も言わず、ただ茫然と座っている。そのとき、看守のジャッキー(ブレンダン・グリーソン)がアーサーに面会者がいると告げ、廊下の受付エリアへと連れ出す。

とある収容者の男がアーサーを引き止めジョークを言うが、そのオチは前作でジョーカーがマレー(ロバート・デ・ニーロ)に言ったものと同じ「報いを受けろ」。そしてアーサーは、その男から腹部を何度も刺される。床に倒れるアーサーの背後で、男は様々な笑い方を試しながら、刃物で自分の顔を引き裂く。1人のジョーカーが死にゆくと同時に、“あのジョーカー”が誕生したのだ。

ホアキン・フェニックス、映画『ジョーカー』写真: Warner Bros. Pictures

ラストは何を意味するのか

フィリップス監督自身は、『ジョーカー』をマーティン・スコセッシ監督作『タクシードライバー』(’76)や『キング・オブ・コメディ』(’82)の影響下にあるキャラクター研究として位置付けた。一方で、同時にコミック『バットマン: キリングジョーク』や様々なメディアで語られた複数のジョーカーの物語の影響下にもある。

前作のレビューの中には、この映画が暴力を美化し、ジョーカーを勝利者として描いているという指摘もあった。しかし大多数の人々は、精神疾患を抱え、虐待を受けていたアーサーを英雄視し、富裕層や壊れた福祉制度を糾弾する者とみなしていた。

一方で、アーサーの不満は主に個人的なものであり、貧しい人々や虐げられた人々の利益になることは何もしない。前作のラストで、アーカムに閉じ込められたアーサーは笑い始め、セラピストが理由を尋ねると、彼は「君にはわからないよ」と言う。では、アーサーにしか分からないジョークとは何だったのだろうか?そう、『ジョーカー』は前振りで、『ジョーカー: フォリ・ア・ドゥ』がオチだったのだ。

冒頭の短編アニメのメタファー

『ジョーカー: フォリ・ア・ドゥ』は、古風な短編アニメで幕を開ける。作中で描かれるのは、自分の影と格闘するジョーカーの姿。その影はジョーカーから注目を奪おうとするだけでなく、最終的に殺人の罪を彼に着せる。影は自由にジョーカーを演じる一方で、アーサーは血まみれになるまで殴られる。このゾッとするアニメは、「フォリ・ア・ドゥ」全体を物語っている。

ジョーカーが前作で注目を求めて貧困層を操ったように、今度は裕福な者がアーサーを操る。「フォリ・ア・ドゥ」は、インタビューやテレビ映像、さらにはミュージカルシーンなど、キャラクターがカメラの前で演じる様子が多く含まれている。

リーも、“ジョーカー神話”を築き上げるために自発的にカメラの前に出ていく。リーと信奉者の多くは影のような存在であり、真のジョーカーを待っているに過ぎない。ただし、アーサーは本物ではないのだ。

レディー・ガガ、映画『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』写真: Warner Bros./Courtesy Everett Collection
バットマン: キリングジョーク完全版 コミック 引用元:Amazon
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バットマン:キリングジョーク ブルーレイ 〈ジョーカー フィギュア付き〉 [Blu-ray] 引用元:Amazon
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“ジョーカー”とは何者なのか

前作『ジョーカー』の海外盤ブルーレイの特典映像で、フィリップス監督は「アーサーはジョーカーではないかもしれない。これはジョーカーの起源の1つのバージョンに過ぎない」と発言している。

原作ファンからは前作に対し、アーサーが名前だけのジョーカーであり、劇中でのバットマン/ブルース・ウェインとの年齢差も考慮すると、私たちが知っているキャラクターを完全には体現していないと不満の声があがった。しかし、それに対する興味深い答えは、アーサーは「バットマン」のジョーカーではないということだ。

法廷の証言台に立ったフレックの元同僚ゲイリー(リー・ギル)が、ジョーカーとの遭遇によって彼が抱えた心理的な傷について話すと、ジョーカーの仮面が崩れ始める。抑圧された者の象徴が、同時に抑圧者になり得ることはないはずだ。

さらにアーカムでアーサーを崇拝していた若者が看守によって殺されたとき、彼に現実が突きつけられる。アーサーは反体制の象徴でも、ショーの主役でもない。力を感じ、注目を渇望した殺人者だが、結局のところアーサーは誰でもない。

法廷での爆破事件のあと、アーサーと再会したリーは、もはや彼に興味がない。アーサーに興味を持っているのは、彼こそが“あのジョーカー”だと思い込んでいた観客だけなのだ。

観客の求めるジョーカー像とアーサー

本シリーズの魅力は、一部の観客がアーサーが“あのバットマンの悪役”だと思ったときだけに、アーサーの物語に没入しようとする点にある。彼が実はジョーカーではなく、ただの不幸で悲劇的な男性であることが明らかになると、突然それは裏切りへと変わる。人々の興味の対象はアーサーのキャラクター研究ではなく、彼がどのようにして愛される悪役になるかということだったようだ。

アーサーはむしろ、真のジョーカーたちにインスピレーションを与える存在で、リーや無名の収容者がよりジョーカーに近い、ないしはアーサー/ジョーカーを超える脅威となることが示されている。「フォリ・ア・ドゥ」は、ジョーカーの具体的なバックストーリーが存在しないというコミックの神話にも敬意を表しながら、これを実現している。

では、ファンが求める原作通りのキャラクターではない人物に焦点を当てた映画に裏切りを感じるのは間違いなのか?それは結局のところ、あなたがジョーカーに何を求めるかにかかっている。

おそらく、これは私たちが求めるオチではないのかもしれない。しかし、コミックから離れようとしながらも結局は恩恵を受けることになった製作者と、原作への忠実性やキャラクターとのつながりを重視する一部の観客にとって、『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』は混乱した展開を経て、素晴らしいジョークにたどり着く。私たちはキャラクターを無理に何かにならせることはできないし、クリエイターも原作から離れることはできずに最後は再びそこに戻ることになるのだ。

※本記事は英語の記事から抄訳・要約しました。翻訳・編集/和田 萌

『ジョーカー』(2019)引用元:Amazon
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マーティン・スコセッシ監督『タクシードライバー』(1976)引用元:Amazon
マーティン・スコセッシ監督『タクシードライバー』(1976)引用元:Amazon


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