ホーム » NEWS » 音楽界の巨匠クライヴ・デイヴィス死去94歳

【訃報】クライヴ・デイヴィス死去、94歳 ホイットニー・ヒューストンらを見出した伝説のプロデューサー

/
【訃報】クライヴ・デイヴィス死去、94歳 ホイットニー・ヒューストンらを見出した伝説のプロデューサー
クライブ・デイヴィス 写真:Evan Agostini/Getty Images
スポンサーリンク

ホイットニー・ヒューストン、ブルース・スプリングスティーン、ジャニス・ジョプリンらを発掘し、カルロス・サンタナやアレサ・フランクリンのキャリアを再生させた米音楽界の大物プロデューサー、クライヴ・デイヴィスが6月22日、マンハッタンの自宅で死去した。94歳。代理人が発表した。直近に上気道感染症で入院していた。

音楽界の巨匠、クライヴ・デイヴィス──60年以上にわたる業界人生

1932年4月4日、ニューヨーク・ブルックリンのクラウンハイツで生まれたデイヴィスは、NYU(ニューヨーク大学)、ハーバード大学ロースクールと奨学金で進学し、1960年にコロムビア・レコードの法務部に入社。音楽業界に身を置くなかで次第に才能発掘の感覚を磨き、1967年に社長に就任した。

コロムビア時代には、1967年のモンタレー・ポップ・フェスティバルでジャニス・ジョプリンのパフォーマンスを目撃し、彼女が所属するバンド、ビッグ・ブラザー&ザ・ホールディング・カンパニーを即座に契約。スプリングスティーン、サンタナ、エアロスミス、ピンク・フロイド、ビリー・ジョエルらもこの時期に同レーベルへ迎えた。

1973年に業務上横領疑惑でコロムビアを解雇されたデイヴィスは、1975年にアリスタ・レコードを設立。その後、ディオンヌ・ワーウィック、アレサ・フランクリン、グレイトフル・デッドらと契約し、1983年には当時19歳だったホイットニー・ヒューストンを世に送り出した。

ホイットニー・ヒューストンとのコンビ

デビュー・アルバム『そよ風の贈りもの』(1985年)の制作にあたっては、2年をかけて自らすべてを監修。「グレイテスト・ラヴ・オブ・オール」「ハウ・ウィル・アイ・ノウ」などを収録した同作は爆発的なセールスを記録し、ヒューストンを一躍スターの座に押し上げた。ヒューストン役を演じたスタンリー・トゥッチが劇中でデイヴィスを演じたことでも知られる2022年の伝記映画『ホイットニー・ヒューストン I WANNA DANCE WITH SOMEBODY』でも、二人の関係が描かれている。

2012年2月、グラミー賞前夜に自らが主催するパーティーの直前、ヒューストンはその会場と同じビバリー・ヒルトン・ホテルで急逝した。デイヴィスはパーティーを追悼の場として続行し、業界への弔意を示した。

サンタナ『スーパーナチュラル』の快挙とその後

BMGによるアリスタ経営への介入で2000年に退社を余儀なくされたデイヴィスだったが、その年のグラミー賞ではカルロス・サンタナのカムバック・アルバム『スーパーナチュラル』が主要部門を含む9部門を受賞。同作のプロデューサーとしてデイヴィス自身もグラミーを手にした。アルバムは全世界で2,600万枚以上を売り上げ、収録曲「スムーズ」は12週連続で全米1位を記録している。

その後BMGと合弁でJレコードを設立し、アリシア・キーズを世に送り出したほか、ロッド・スチュワートやバリー・マニロウのキャリア再生にも貢献。2002年にはRCAミュージック・グループの会長兼CEOに就任し、オーディション番組『アメリカン・アイドル』に着目してケリー・クラークソン、ジェニファー・ハドソンらのデビューを後押しした。2008年以降はソニー・ミュージック エンタテインメントのチーフ・クリエイティブ・オフィサーを務めた。

グラミー賞の前夜に毎年開くパーティーは、1976年から業界の恒例行事として定着し、デイヴィス本人もグラミー賞トラスティーズ賞(2000年)を含むグラミー賞5度の受賞歴を持つ。ロックの殿堂にも名を連ね、2003年にはNYU・ティッシュ芸術学部内にクライヴ・デイヴィス・インスティテュート・オブ・レコーデッド・ミュージックを設立した。

遺族は子ども4人、孫9人、ひ孫2人、そしてパートナーのグレッグ・シュリーファーら。家族は声明で、「父は現代音楽史上最も偉大なアーティストたちを発掘し、育て、世に送り出した。その功績は文化に消えない痕跡を残し、世代を超えて受け継がれていくだろう」とコメントした。

※本記事は英語の記事から抄訳・要約しました。

【関連記事】

スポンサーリンク

類似投稿